いよいよ今年もあとわずかとなりました。
さあ、新年を迎えるにあたって、少し正月の話でもしてみようかと思います。
正月各歴の年初のことである。
文化的には旧年が無事に終わった事と新年を祝う行事であるとされている。
正月飾りをし、正月行事を行い、御節料理を食べて盛大に祝う事を正月と考えられている。
では、
戦国期の正月はどのようなものであったのか。
武家社会では、年始や元服などの重要な儀礼の際には祝い膳でもてなし、関係をより緊密にする意味をもつ椀飯(おうばん)が行われ、特に年始に行われる
「歳首の椀飯」は武家社会の最も重要な儀式の1つとして行われていたようである。
もてなしを行うことは、主従の結びつきを再確認し、関係をより強固にする意義があったされている。
鎌倉時代では元旦より数日にわたり、北条氏をはじめとする有力御家人が将軍に対して
太刀・名馬・弓矢とともに椀飯を奉ったという。
室町時代になると、有力守護大名家の当主が将軍家に椀飯を奉る儀式が誕生し、
大名家ごとに将軍の元に出向いて椀飯を奉る日付が定められていた。
元日は時の官領が行い、
二日は土岐氏、
三日は佐々木氏、
七日は赤松氏、
十五日は山名氏が行う事とされていた。
因みに、佐々木氏が京極氏と六角氏に分裂すると、両氏が毎年交代で椀飯を奉る事になった。
当時の献立はというと、椀飯と打鮑・海月・梅干の三品に、酢と塩を添えて四隅を切り取った
折敷(おしき)と呼ばれる盆に載せて出すものであった。
松田美智子の自在道具また、
「庖丁」と称して将軍の御前で生きた魚を調理させて献じる趣向なども行われていた。
しかし、応仁の乱以降、幕府の力が衰退していくと共にこの儀式は無くなり、各大名家で行われるようになる。
江戸時代に入ると、年始に江戸在府の御三家が老中以下の幕閣や有力旗本を招いて
祝い膳でもてなす事や、町奉行が役宅で与力らをもてなす事を椀飯と称するようになる。
こうした風習は民間にも広まり、年始に親類縁者や友人知人を招いて馳走することを「椀飯振舞」
「節振舞」と呼び、これが転じて
「大盤振舞」という言葉の語源となったという。
江戸時代後期にもなると、
庶民の暮らしもずいぶんと変わり、将軍や武家といった身分の高い人たちの行事が、
一般の家庭でも習慣化され、季節の変わり目にあたる節句に食べる料理が、最も重要な節句である正月の料理をさすようになった。
御節料理(おせちりょうり)である。
たとえばおせちの筆頭格ともいえる
かまぼこは、形が日の出に似ていることから取り入れられるようになり、紅白の縁起がよいものがお約束とされている。
他にも、「まめまめしく、健康で働けるように」と祈りをこめた
黒豆、
養老昆布(よろこぶ)にかけて不老長寿の縁起物として使われた
昆布巻小金に輝く財宝にたとえた
栗きんとんは、勝栗(かちぐり)といって、必勝祈願の縁起物として武士が好んで口にしたとされている。
などなど、沢山の食材からなる御節料理は、見た目や語呂合わせで、
無病息災と
子孫繁栄を願う人々の願いが込められているのである。
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