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祟りをなす名刀癬丸(あざまる)

 【22//2012】

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天文十六年(1547年)九月二十二日
加納口の合戦(かのうくちのかっせん)で戦死した熱田神宮大宮司家の当主
千秋紀伊守季光(せんしゅうきいのかみすえみつ)は、あざ丸という銘の刀を所持していた。

信長公記によると
「爰(ここ)に希異の事あり。去る九月廿二日の大合戦の時、千秋紀伊守、景清(かげきよ)所持のあざ丸を最後にさゝれなり。此の刀、陰山下掃部助(かげやまかもんのすけ)求めさし候て、西美濃大柿の並び、うしやの寺内とてこれあり、成敗に参陣候て、床木に腰をかけ、居陣のところ、さん転の悪き弓にて、木ぼうをもつて、城中より虚空に人数備への中へくり懸け侯へば、陰山掃部助左のまなこにあたる。其の矢を抜き侯へば、又、二の矢に右の眼を射つぶす、其後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門(これずみごろうざえもん)所へ廻り来なり、五郎左衛門眼病頻に相煩ふ。此の刀所持の人は必ず日を煩ふの由風聞侯。熱田へまいらせられ然るべしと、皆、人毎に異見侯。これにより、熱田大明神へ進納侯てより、即時に日もよく罷り成り侯なり。」とある。


天文十六年(1547年)九月二十二日
千秋紀伊守は、悪七兵衛の異名を持つほどの猛将であった平景清(たいらのかげきよ)が所持していたとされるあざ丸という銘の刀を差し、合戦に臨んでいる。

この「あざ丸」:癬丸(あざまる)は、熱田神宮に奉納されている打ち刀であり、愛知県重要文化財に指定されている。

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源平の時代、平氏の武将 悪七兵衛景清が所持していたこの太刀は、壇ノ浦で源氏に捕まった際に、取り上げられた太刀であったという。
その後、数々の武将の手に渡たるが、持ち主に祟りをなすと言われた名刀であった。
千秋紀伊守が戦死した後、陰山掃部助という侍が所持することとなる。

陰山掃部助が、西美濃大柿辺りの牛屋の寺内(じない)というところに参陣していた時の逸話である。
陰山掃部助が、床几(しょうぎ)に腰掛けていると、木棒(きぼう)が強弓を使用して城中から放たれた。
それが陰山掃部助の左目に当たり、その矢を引き抜くと次の矢が右目に当たり両目を失ったという。

またこの「あざ丸」はその後、丹羽五郎左衛門長秀(にわごろうざえもんながひで)の手に渡ったのだが、この刀を所有するものは目を患うという噂があり長秀もまた眼病を患ってしまった。

そこで、熱田神宮へその刀を奉納して、祟りを封じるべきだと周囲の勧めもあって
熱田大明神へ奉納したところ、間もなく眼病は快復したという。
不思議な話である。

癬丸は、持ち主に祟りをなすと言われており、熱田大宮司の千秋季光は加納口の戦いで戦死、
次の持ち主となった陰山掃部助は戦で両目を次々に潰され、その次の持ち主となった丹羽長秀も眼病に悩ませられたという。

癬丸の号は、景清の顔のあざが刀身に写ったという伝承にもとづくという説もある。

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Category: 寺子屋

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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