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樊暑

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植村新六郎氏明(うえむらしんろくろうじあき)
松平宗家三代(清康・広忠・家康)に仕えた家臣。
松平宗家に仇を成す謀反人を二度に渡り斬殺した人物。

稀代の英雄として語り継がれていた、松平二郎三郎清康を暗殺した
阿部弥七郎正豊(あべやひちろうまさとよ)
弱体化した宗家を守った悲運の英雄、松平次郎三郎広忠を暗殺した
岩松八弥(いわまつはちや)

主君暗殺現場に二度も居合わせ、二度も刺客を斬ることが偶然出来たのかどうなのかは解らないが、二代の主君の御仇を即時に誅しける冥加の武士として、松平家で重きをなしたのは事実である。

現代社会と同様に、戦国時代も欲にからんだ人間模様が毎日のように繰り広げられていた。
武士が出世するためには、死と隣り合わせの戦場で功名を挙げるよりほかなく、敵将の首を獲る事が武士の営業実績を上げることとされていた。
逆に討たれてしまえば、自らの首が敵の成績につながるという皮肉な世界である。

当時は、現代よりも階級が固定化されているため、派手な活躍を示さない限り、実績が評価されることはなく、出世することは現代社会よりも厳しかったはずである。

そのため、どのような手を使ってでも成績を挙げたい、褒賞を得たい、出世したいと思う武士がいたとしても、不思議な事ではなかった。

植村新六郎氏明がその手の武将であったのかどうなのかは解らないが、二代主君の御仇は、派手過ぎるほどの実績ではないだろうか。
欲に駆られて心に魔が差し、取り返しのつかないことをしてしまった人間は、今昔も変わらず多数存在していたはずである。

また氏明は、豪傑(ごうけつ)として知られ、槍・刀の名手で、日本の剣術の源流とされ、源義経が幼少期に学んだ兵法・剣術である鞍馬流(くらまりゅう)の奥義を極めていた人物としても有名である。

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冥加の武士として、松平家で家老にまで登りつめた氏明の嫡男に、
植村新六郎家政(うえむらしんろくろういえまさ)という人物がおり、彼もまた豪傑であったという。

東照宮御実紀(とうしょうぐうおんじっき)によると、
「植村新六郎家政御刀かゝげて御後に従しを。信長の家人咎めて。何者なればこゝまで闌入せしといふ。家政我は徳川が内に植村新六といふ者なり。主の刀を持てまかるをば何故に咎らるゝぞといへば。信長きかれ。新六参たるか。これはかくれなき勇士なり。汝等妄りに不礼なせそとて。やがて盟約の議畢りて後さま〃饗し奉り。新六をもその座へ呼出し。今日はじめて汝が勇気をみしに。むかしの鴻門の会の樊噌にもこえたりとていたく賞美せらる。この新六が父新六某は清康君を害し奉りし阿部弥七をうちとり。そののち岩松八弥が岡崎殿に鎗付しを即座に打とめ。一身二度の忠節を顕しけるが。今の家政も幼年より数度の戦功をはげみ忠勤怠りなければ。後年その世々の勲功を賞せられ。御家号をも賜はるべきなれど。植村が氏称は他国にも聞え當家の眉目にもなれば御家号は賜はらず。たゞ御名の一字を賜りて家政とめされ。御軍扇并に一文字の御刀賜ひ。直参の徒三十騎を付させられしとぞ。」とある。

徳川家康が、織田信長との同盟に赴く(おもむく)際、護衛を務めた植村家政は、家康の佩刀(はいとう)を持ったまま信長の前に出ようとした為、信長の家来衆に咎(とが)められた。

すると家政は、「我は徳川が内に植村新六といふ者なり。主の刀を持て来たことを何故に咎められるのだ」と信長の御前で言い放ったという。

その堂々とした姿に、信長は鴻門の会(こうもんかい)樊暑(はんかい)のようだと賞賛し、
二振りの行光の太刀(ゆきみつのたち)を与えたという。
あの武田信玄もその豪勇を評価していたとされている。

その後、三河統一の功臣で、家康直参の与力三十騎を与えられ旗本先手役(はたもとせんてやく)として
従軍し、酒井忠次(さかいただつぐ)・石川数正(いしかわかずまさ)らと共に家老を務めた。

また越後の軍神・上杉謙信にもその豪勇が届いていたと言われ、織田信長と上杉謙信の同盟を仲介した際は、上杉謙信より長光の刀(ながみつのたち)と山伏出立の具足を贈られたが、三十七歳の若さで亡くなっている。

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